【ボートレース】ボートレーサー132期 郷土勢がいよいよデビュー
ボートレーサー養成所(福岡県柳川市)での1年間の厳しい訓練を耐え、3月に修了式を行った132期生27人(男子19人、女子8人)が、1日から全国各地でデビュー戦を迎えた。郷土勢は6日の若松を皮切りにそれぞれ晴れの舞台を控える。未来のスーパースターを目指して第一歩を踏み出す6人を紹介する。
◆プロフィルの見方 ①生年月日、年齢②出身地③出身校④登録番号⑤支部⑥養成所リーグ戦通算勝率⑦リーグ戦優出、優勝回数⑧身長・体重・血液型⑨デビュー戦
嘉手苅徹哉(24)福岡 ファン投票1位選手に
沖縄を背負う選手に―。レース場のない南国の地で嘉手苅徹哉(かでかる・てつや)が目指した職業はボートレーサーだった。きっかけはバスの中で見た一枚の広告。小学校から専門学校までは白球を追いかけ続けた野球少年。だが、成長するにつれ体格的に限界を実感。そんなときに目に飛び込んできたのがボートレースだった。
自分の体格が生かせると分かると迷いなく養成所の門を叩いた。自身に憧れの選手がいたわけでもない。まして、実際にレースを見たのも養成所試験に受かってからが初めて。そんな未知の世界だったが、いざその入り口に立ってみると一つの感情が湧き上がった。「沖縄の人にもっとボートレースを知ってもらいたい」。試験に受かって改めて感じたのは周囲との認知度の差。修了記念レースを観戦した親もレースを生で見るのは初めてだった。
「実力をつけて嘉手苅という名前を全国に広めたい。結果的にそれが沖縄にもっとボートレースを広めることにつながれば」。訓練終盤では教官からも「伸びてきた」とうならせるほど旋回力もメキメキ向上させた。目標はファン投票1位。地元の日差しに負けないくらいの熱いターンで、沖縄を背負って立つ選手になってみせる。
①1998年10月11日、24歳②沖縄県八重瀬町③尚学院国際ビジネスアカデミー④5284⑤福岡⑥4.15⑦0優出0V⑧158・52・B⑨若松(5月23~27日)
坂井滉哉(23)福岡 ボート界一のS野郎に
目指すは艇界一の弾丸野郎―。坂井滉哉(さかい・こうや)は小学校のころ、ファンだった親に連れられ訪れたのは若松ボート。そこで見た生のレースの迫力に魅了され進むべき道を決めた。ただ、ここまでたどり着くには並大抵の道のりではなかった。養成所試験を受けた回数は実に9回。高校卒業後は陸上自衛隊にも進んだが、夢を諦めず受け続け憧れの扉を開いた。
苦労した分、養成所では何事にも貪欲に取り込んだ。メキメキと力をつけると「訓練初期から旋回のスピード、安定感ともにいいものを持っている」と教官も目を見張るほどまで成長した。「就寝前に(132期チャンプの)水谷とその日の訓練を話していたことが一番印象に残っている」と語るほど、人一倍ボートのことだけを考えて1年間を過ごしてきた。そのこともチャンプ決定戦に出場するというはっきりとした形として表れた。
「目標とする人は田頭実選手です」と将来の理想像に艇界随一のS野郎を思い描く。そんな思いもあってか、養成所時代の平均Sはタイでこそあったがトップを貫くなど既に片りんを見せ始めている。きたるデビュー戦でも快Sをたたき込み最速一番星をつかんでみせる。
①1999年7月4日、23歳②北九州市③星琳高④5286⑤福岡⑥6.67⑦5優出0V⑧169・51・O⑨若松(5月6~9日)
土井歩夢(20)福岡 信念を貫き夢の舞台へ
自分の道は自分で切り開く―。土井歩夢(どい・あゆむ)は祖父の家が若松ボートの真裏だったこともあり、ボートレースを間近に肌で感じていた。そんな土井にとって「ボートレーサーになること」というのはごく自然な流れでもあった。
だが、その気持ちとは裏腹に憧れの舞台に挑戦するのも一筋縄ではいかなかった。「親がなかなか認めてくれなくて」と、身長などの条件は満たしても、受験の機会を得られず時間だけが流れていく毎日。それでも次第にその熱意に押されてか、「大学に入れたら好きにしていいと言われて」と「お許し」が出ると、すぐさま難関大学に合格。「第一関門」を突破してみせた。それでも「あくまでボートレーサーになるためだったので」とためらいなく養成所の門を叩いた。
学業もさることながら、ボートレースでの成績も優秀そのもの。リーグ戦第3戦では優勝を飾り、勝率も常に上位をキープ。チャンプ決定戦にまで駒を進めた。さらに教官からは「他の訓練生に積極的にアドバイスを行い、期の全体のレベルアップに寄与していた」と実力だけでなく、その人間性にも太鼓判を押される。最後まで自分の道を貫き通した男が夢の第一歩を歩み始める。
①2003年4月1日、20歳②北九州市③自由ケ丘高④5303⑤福岡⑥6.84⑦4優出1V⑧164・53・B⑨若松(5月6~9日)
富永夏哉人(19)佐賀 父と同じ勝負の世界へ
勝負師の道を歩む―。富永夏哉人(とみなが・かなと)は父が競輪選手とレーサー一家の生まれ。幼いころから父の背中を見るうちに、「勝負の世界で活躍したい」と自然に思うようになった。もともと体格が小さかったことや、からつ、大村両場でレースを観戦するうちに興味はボートレースの世界に移っていった。さらにペアボートで水上の迫力を身をもって体験することで次第にその気持ちは大きくなり、父とは別の道を進むことを決意。その父の勧めもあって養成所に入所。憧れの勝負の世界へ足を踏み入れた。
勝負師の血が騒ぐのか実戦訓練が始まると、その才能はすぐさまに開花した。「道中の位置取りや隊形の把握、旋回の良さが目立ってきた」と教官も目を細めるほどレースセンスは抜群。メキメキと力を蓄えるとリーグ第2戦では1号艇から逃げ切り優勝。優出も計3回と重ねれば、チャンプ決定戦では2号艇に就くほど勝率も伸ばし続けた。
「握っていけるし、スピードには自信がある」と高速ターンを売りにする。その著しい成長曲線は、近況若手の成長著しい佐賀支部の勢いそのもの。養成所3連覇として名をはせる先輩たちにも負けない走りで、佐賀のニュースターとして輝いてみせる。
①2003年7月29日、19歳②佐賀県武雄市③嬉野高④5307⑤佐賀⑥7.22⑦3優出1V⑧162・51・O⑨からつ(5月9~14日)
藤森拓海(18)福岡 兄の背中を追いかけて
兄の背中を追いかけて―。藤森拓海(ふじもり・たくみ)がボートレースの世界に興味を持ったのは兄・陸斗(127期)のデビュー戦を見たのがきっかけ。それまでは、野球のボーイズリーグに所属し、ボートレーサーにも「なろうと思っていなかった」と語るほどに、ひたすら白球を追いかけていた。
そんな野球小僧も、他の誰でもない肉親の勇姿を目の当たりにすると「かっこいいと思った」と心動かされるようになった。さらに「なかなか太れなくて」と野球を続ける上では悩みの種だった体質も後押しした。レーサーにとってアドバンテージになると分かると心機一転。野球に区切りをつけると養成所の門を叩いた。
実技訓練で実際にボートに肌を振れると、その楽しさを改めて実感。常に頭の中はボートのことを考えるほど課業にも打ち込んだ。伸び悩むことがあれば「兄にアドバイスをもらっていました」と、現役選手の「生」の声を取り入れてすぐさま改善。「二人三脚」で修了までの道を歩み続けた。「売りは旋回スピード」と自負する高速ターンは教官も「武器になる」と認めるほど。「迫力あるレースができる選手になりたい」。良き理解者でもあった兄は、今度は最大のライバル。水上で一人前の走りを見せて恩返しをする。
①2004年7月24日、18歳②福岡県新宮町③九産大九州高④5308⑤福岡⑥4.61⑦0優出0V⑧172・54・B⑨若松(5月23~27日)
森雄利(18)長崎 ボート史を紡ぐ選手に
ボートレースの歴史を紡ぐ選手に―。森雄利(もり・ゆうり)はボートレース関係者の家庭に生まれたが、その中身はひと味違う。大村ボートの開催従業員として働く母を持ち、さらに祖父はその大村ボートの立ち上げにも携わったていたという、生粋のボートレース一家だ。
「発祥の地」で暮らしているだけあって、ボートは常に身近にあった。幼い頃からレースも観戦。さらに中学生のときに祖父がボートレースの礎を築いた一人だったことが分かると、心も大きく揺れ動いた。「自分も3代目として歴史を受け継いでいきたい」。自身の体型も生かせることからレーサーとして関わることを決意した。
養成所ではなかなか結果に結びつかず苦しんだ時期も、持ち前の粘り強さで旋回訓練を続けると操縦能力も上達。手応えをつかむと「意識が変わった」とスイッチが入るように課業に明け暮れた。リーグ戦を通じて事故率0.03とクリーンなレースが身上。第1戦ではいきなりの優出も果たした。目標とする選手は定松勇樹。自身と同じく17歳で入所。飛ぶ鳥を落とす勢いを見せるトップルーキーに自分の姿を重ね合わせる。発祥の地から偉大な選手に―。大スターとして艇界の歴史に名を刻んでみせる。
①2004年8月10日、18歳②長崎県大村市③大村工業高④5309⑤長崎⑥5.54⑦1優出0V⑧161・52・O⑨大村(5月6~10日)