【競輪】神山雄一郎の引退会見での発言全文 引退表明と記者との質疑応答
神山雄一郎「きょうはこんなにたくさんの関係者、記者さんに集まっていただきまして本当にありがとうございました。私、神山雄一郎は、昨日まで走っていました取手競輪を最後に、競輪選手を引退させていただく決意をしました。本当に長い間、ありがとうございました。
ここに辞めるにあたり、何の準備もしていませんが、自分の心の中をしっかりと話したいと思いましたので、少し長くなるかもしれませんが話したいと思います。
競輪関係者の皆様に長い間36年間お世話になったこと。同じ同僚の競輪選手、中野浩一さんをはじめ先輩方の選手、栃木の地元の競輪選手、JKAの皆さま、ファンの皆さま、競輪場、宿舎で働いておられる皆さま、宿舎で食事を作ってくれている皆さま、本当に長い間、お世話になりました。
本当に僕にみなさんよくしてくれたので、その感謝の気持ちでいっぱいです。36年間、すばらしい競輪選手生活だったと思っています。本当にありがとうございました」
◆記者との質疑応答
―いつ引退を決意したのか
「自分でももう、いつ決めたかはあまり定かではなくて。ただひとつの引き金になったのは、函館競輪での失格は、やっぱり自分の中ではちょっと考えどころだったので、そこがまずひとつの第1段階だったと思います。
やっぱり基本的に競輪が好きなので、できることなら一生やり続けたい。けど結局は一生はやれない仕事なので、いつかは引退しなくちゃいけないので、それを考えたのがそのとき。それまではそういうことさえも考えずに、突き進んでいただけなので。函館の失格がひとつの引き金になったのかなとは思います」
―家族などに相談したか
「多分、相談みたいなものはしていないと思います。自分の中で、言葉はいいか悪いかわかんないですけど『やっちったよ』ていう。やっぱり仲間たちから『神山さんA級じゃん』とかって言われるじゃないですか。そうするとそれが心に残って、『うわあ、どうすっぺ』っていう感覚でずうっと過ごしてきて、そこから降格するまでに半年あるわけですから、どうしようと思いながら一戦一戦頑張ってきて。
家族とは常々そういった近いような話はしていましたけど、家族としては逆に『そろそろいいんじゃないかな』と思っていたかもしれないので、僕がそういう相談をしたら確実にそっちの方向に連れて行かれると思うので。あんまり相談ということはせずに、自分の中でうまく処理していった状態。本当にいつ決めたかなというと、つい最近かな、という感じ」
―今の心境は
「本当の心境は、『えー、こんな日が来ちゃったんかな』というのが本当の心境。それくらい自分の中で競輪が好きだったので、正直、やれることなら一生やり続けて戦い続けて、それも上位で戦い続けてという気持ちなので、この日が来てしまったのかというのが一番の心境です」
―印象に残っているレースは
「初めて取った特別競輪が宇都宮の地元のオールスターだったので、そのレースがやっぱり一番心に残っているかもしれないですね。たくさんあるので、競走のレベルに限らずに、それこそ昨日のレースでもすごく心に残るレースだったのでどれとは決められないんですけれど、やはり特別競輪を取れたというのは自分の中で心に残っています」
―今後は
「突然といえば、自分の中では突然辞めたというイメージがあるので何も決めていないんですけど、まずは家族との時間を過ごしながらちょっとゆっくりして。
何か自分のキャリアを積んできたことが何か後輩などに還元されることができれば、そういうこともしたいなと思いますけれど、今のところは一休みして。またそういうときがきたらまたご報告させていただければ」
―ファンへのメッセージを
「デビューしてからたくさん応援していただいたファンの方には感謝しかありません。今後も何かの形で競輪界に携わっていければいいなと思っていますので、今後とも応援してくれればうれしいです。本当に長い間、ありがとうございました」
―地元宇都宮でのレースは神山選手にとってどんなものだったか
「競輪選手はほぼみんなそうだと思うが、地元というのは僕で言うと特別競輪とほぼ変わらず、S級シリーズでも同じような感覚で走る感じなので、地元に対する思いというは強いので、思い入れ、心を込めて走ったつもりです」
―栃木の後輩に伝えたい思い、託したいものは
「どちらかというと自分は人に『ああしろこうしろ』とあまり言うタイプではないので、言ってはきていませんけれども、もし後輩たちが、自分の姿勢とか、後ろ姿とかを見て、いいか悪いか分かりませんが、学んでくれていればうれしいなと思います」
―地元栃木で惜しまれているファンへ
「地元ですと街中で会ったり、スーパー銭湯で声かけられたり、『いい体してんなあ』なんて言われたりして応援していただいてきたので、惜しまれつつ辞めるのもいいかなと思うので。栃木県ですと、栃木県知事さん、宇都宮市長さん、本当にお世話になったので。県民の皆さまに、僕の方こそ感謝しています」
―特別競輪16Vなど積み上げてきた記録を振り返って
「率直に言いますと、よくやったなという感じですね。競輪学校入学して、デビューして、何としても特別競輪を優勝したいという気持ちでデビューしたので、特別競輪をそんなに勝ったというのも信じられないです。
思い起こせば、昔、ふるさとダービーの函館だったと思うんですけど、当時、前夜祭というのがありまして、そこで滝澤正光さんと一緒に前夜祭で食事したりしゃべったときに、滝澤さんに『滝澤さん、特別競輪何回優勝したんですか』と聞いたんです。そしたら『俺はまだ12回だ』と言って、びっくりした。『この人、12回もとっているのか』と思って、それが特別競輪のすごさを感じたときで、滝澤さんのすごさを感じて。
それを超えるとは思っていなかった。その記録も自分は16回も取れたので、よく抜いたなっていう気持ち。
ただ一レース一レースを積み上げてきて、特別競輪に限って言えば、決勝にたどり着いて満足するんですけど、そこから『ここを取らないと差がつかない』というか、特別競輪の決勝に乗る人はたくさんいるので。これを取ってこそ自分が歩んできた競輪の練習とか、競輪に対する姿勢を評価するには『これを取らないといけない』という気持ちがすごく、多分、もしかしたら他の人より強かったかもしれない。その分、決勝戦で成績を残せたのかなと思いたいんですけど、決勝戦に乗っている数もすごく多いんで、もしかしたら割合はあんまり良くなかったかもしれないですね」
―競輪の魅力は
「僕はよく自転車が好きだとみなさんに言われるんですけど、もちろん自転車も好きなんですけど、『競輪』が好きなんですよね。競輪を創ってくれた倉茂貞助さんに感謝していて、こんな素晴らしい競技がほんとに世界中探してもないんじゃないかと思うんですけど。
その魅力というのは、勝負ありつつ勝った負けたがあって、車券の対象になっていて、その時点ですごいんですけど、勝った負けたに対して、負けても、こう言ったら車券買っている人がどう思うかちょっと分かりませんが、負けたとしてもやり切った感が出せるレースというのがあって、勝ったら勝ったでそれはいいんですけれど、勝ってもどことなく釈然としないレースもあったりして。
そこが競輪の魅力というか、競輪選手としての競輪の魅力。負けてもいいわけではないんですけれど、その負けの中にカチがある。『勝ち負け』の勝ちであったり、『物の価値』の価値があったり。そのことがすごく僕は競輪に取り付かれる魅力だと思う。
それを後輩らに話すんですけど、やっぱり結局みんな目先の1勝は絶対欲しいのは分かるんですけど、そのきょうの負けの中に『お前は何を感じ取ったか』、そこがすごく大事かなと。
僕はそこにすごく魅力を感じて、競輪競走の奥深さ、負けの中にカチがある。そのカチも『勝ち負け』の勝ちと『物の価値、価値観』の価値、それが競輪という競技のすごい魅力で、僕はもうそこに取り付かれたという感じだと思います。
―36年間続けられた原動力は
さっき話した、競輪の魅力にはまったというのが大前提。競輪はクラス分けがあって、強い人は強い人同士、脚力が落ちてきたら同じレベルの人での戦い。結局走っている人にしたら、どこで走っても一緒なわけですよ。それがほんとに一つの魅力。
自分が特別競輪を5年くらい走れなくなったんですけれど、その下の、下でもないんですがS級シリーズで戦うことに関して、当時特別競輪で走っていたときと同じ気持ちで走れるんですよ。
それは人によるかもしれませんけど、僕の場合は特別競輪の決勝でも、きのうのS級の一般戦でも同じ気持ちで走れるので、それが原動力といえば原動力になる。次の競輪、明日のレースで何とかして1着を取ってやろうっていう。なのでなかなか辞められなかったというのは、それがあったと思います。自分の中では。
だからそれが原動力であって、あとはファンの方の声援も多いですし、自分勝手に辞められないなという状況になっちゃったという。応援されるので。
900勝を、もう本当に取れなくなっちゃうかなというくらいだったんですけど、それも本当にいろんな方に支えられながら、取れるまでは辞められないなというそんな感じもあったし。そういった周りの方の支えがすごい原動力になったかなって思っています。
―神山選手にとって競輪とは
当たり前のようによく皆さん聞く言葉だと思うんですけど、人生そのものというか、本当に、ちょっと前までは、競輪が大好きで、競輪で力を出し尽くして、自分の残っている力は最期、自分の力で棺おけの中に何とかして自分の力でたどりつけるだけの力を残して競輪を走り続けようと思っていたので。それくらいの魅力のあるものです。人生そのものといってしまえば、そのものです。
―きのうまでの取手開催はどのような心境だったか
自分の中では最後という気持ちでいたので。でも、思いのほか落ち着いて参加して、逆に記者さんとか同じ選手仲間とかの方が気を使っていた感じなので、それがちょっと不思議な感覚だったんですけど、最後のレースに関しては普段どおりの気持ちでいられたと思います。
―同郷の選手には伝えることなく普段どおりだったか
基本的には。ただ弟子の飯嶋(則之)と(神山)拓弥には言っておいたので。みなさんもご存じだと思うんですけど、配分が出るので。最後ぐらいは一緒に宿舎の生活、宿舎の生活が僕は好きなんで、あいつらと行くと楽しいんで、何とか一緒の配分になれるようにということで。あいつらが嫌だと言ったらできないんで、それを一応確認して、そのタイミングですね。配分が出る前なんで、何カ月か前のことです。
―何千人もの選手と戦ったが、強いと思った選手は
それは数え切れないほどいっぱいいるし、競輪選手みんながみんな、魅力的な選手がいっぱいいるんで。強い弱いに関係なく。(涙で声をうわづらせて)みんなすばらしい、すばらしい。すみません…。
みんなすばらしい選手が、たくさんいますので。ただやっぱり、自分の中では、同時代だった吉岡稔真選手が、自分の中で勝手にライバル視して、常に頭の中に置いて練習して、それこそ吉岡君に認められる選手になりたくて頑張ってきた、つもりです。(号泣)
言ったように競輪選手、いい選手がいっぱいいて、その仲間がみんな、ライバルである僕を応援してくれたり、引退するに当たって言葉をかけてくれたり、それが本当に競輪っていいなと思ったり。
みんな競輪学校を受けて選手になって、一生懸命頑張って上を目指して、一緒に戦ったりしてそれが本当に、勝手に思っていますけど、そういった選手が自分の財産だと思います。(涙ながらに)すみません。
―勝てなかったKEIRINグランプリへの思い
それはやっぱり選手としてここまでの成績を残したならば、グランプリを勝ちたかったなという気持ちは、正直すごく強いです。でもそこはみんなが目指すところなので、絶対勝てるとは限りませんので、かっこよく言えば、そこを目指してずっと頑張ってこれたのは良かったかなと思います。
ただ、取りたかったのは取りたかったんですけど、しょうがないという感じですね。あとは後輩の眞杉(匠)もいますし。
なかなかグランプリは自分は取れなかったですし、グランプリというレースも見たくなかったですし。時期的に12月30日になりますので、まあ笑い話ですけど、いい正月を迎えたことがなかったので、選手になってから。
今年は気にせずにしっかりと、選手を引退したことですし、気持ち良くレースを見て、さっきも言いましたけれど選手みんなすばらしいんで、同県の眞杉はもう当然ですけど、全員応援して見ていたいと思います。