【佐世保競輪・GⅢ開設記念】井上昌己 特別インタビュー 今夏に心臓を手術 「競輪選手の第2章」の幕開け/12月4日開幕
佐世保競輪(長崎県佐世保市)
GⅢ開設75周年記念「九十九島賞争奪戦」
12月4日(木)~ 7日(日)開催
こんにちは、コンバット満です! 今回は久々に、長崎県の佐世保競輪場に来ました。長崎が生んだメダリスト・井上昌己選手(46)=長崎・86期・S1=にお話を聞くためです。12月4日からこの佐世保バンクで4日間戦う、GⅢ開設75周年記念「九十九島賞争奪戦」(優勝賞金560万円)への意気込みを話してもらおうと思っています。競輪選手になる前のことや、アテネ五輪の銀メダルにまつわる話も、突っ込んで聞きますよ!
目次
■父の競輪選手としての姿は「記憶にない」
――井上さん、こんにちは! はじめまして。
「よろしくお願いします。福岡の育ちなんで、高校時代は『ドォーモ』(KBCテレビの夜の番組)などでいつもコンバットさんを見ていたんです。お目にかかれるのを楽しみにしていました」
――そうなんですね。ありがとうございます。僕も楽しみでした。よろしくお願いします。井上さんのお父さんも競輪選手だったと聞いています。子どもの頃から、競輪を身近に感じていたということでしょうか。
「いや、そんなことはないんですよ。父が競輪選手だったということは知っていましたけど、走っている姿は記憶にないんですよ」
――えっ、お父さんの姿に憧れて、というわけじゃないんですか。
「父は長崎で選手をやっていたけど、けがをして若くして引退したようです。引退直前に東京の柔道整復師の学校に行ったんだと思います。それで家族は長崎から東京、長崎、福岡と引っ越しました。自分は小学4年で福岡に住んで、博多区の弥生小、那珂中の出身です」
――今の『ららぽーと福岡』の近くですね。
「そうですそうです。すぐ近くに住んでいました。当時は青果市場だったんですけどね。一度行ったらすごい商業施設ができていてびっくりしました」
――高校では陸上でインターハイを優勝したそうですね。
「筑陽学園で陸上の八種競技をやっていました。走るだけでなく、跳躍や投てきもある混成競技です」
――それだと大学の陸上部からも誘いがあったんじゃないですか。
「いくつもあったみたいですけどね。でも大学に行く気もなかったし、陸上を続ける気もなかったんですよ」
――高校を出たら競輪選手になるつもりだったんですね。
「いや、そうでもないんです。高校3年で競輪の適性試験(自転車のタイム測定ではなく跳躍力や背筋力などの体力測定値で合否判定)を受けたんですけど駄目でした。卒業後のことは特に何にも考えていなかったんです。何とかなるかな、そのうちやりたいことが見つかるかなと。世の中をなめていましたね。同学年で進路が決まっていなかったのは自分だけだったと思います」
――では卒業後は何をやっていたんですか。
「プラプラしていましたね。(福岡市の)竹下駅(近く)の雪印乳業(現雪印メグミルク)の工場でフリーターもしていました。マイナス20度の倉庫で段ボールを運んでいました」
――フリーターから競輪選手って、どんな流れですか。
「そんな自分を見かねた父が、『本気でやってみろ』と競輪選手を勧めてきました。それでやってみようかなと。ただ、やらされる練習はきつかったですね。競輪学校には2回目で受かりました」
――競輪学校でも大変だったんじゃないですか。
「訓練そのものは、大したことはなかったですね。受験前の練習に比べたらきつくなかったし。でも集団行動はきつかったですね。朝起きて、布団の四隅をきっちり合わせて、みたいな」
――あっ、それ自衛隊と一緒じゃないですか。
「それと、もっと強いやつがいっぱいいると思っていたんですが、そうでもないなと。少しなめちゃいましたね」
――競輪学校の成績も良かったんですね。
「訓練成績は上の方でしたね。卒業記念レースも優勝できました」
■アテネ五輪の予選で「いけるんじゃね?」
――そして2001年8月のデビュー。デビューした後も勝てたんでしょうね。
「そうですね。デビュー戦も優勝できました。あんまり練習しなくても勝てるというのがあって、それは良くなかったですね」
――バンクレコードも出したそうですね。
「デビュー1カ月くらいで門司のバンクレコードを出しました。そのまま門司は閉場となったので、ずっと残っちゃってますね」
――それはレコードを出すぞ、という意気込みだったんですか。
「いやいや、そんなことはないです。『出ちゃった』って感じですね」
――出ちゃった…。その後、2004年のアテネ五輪へも出ちゃってますが、どういういきさつなんですか。
「若くてある程度活躍していたらナショナルチームから声がかかるんですよ。自転車競技自体には興味があったので、やってみたくてお願いしました」
――ナショナルチームはさすがにすごいトレーニングだったでしょう。
「いやいや、そうでもなくて楽しかったですよ。でもアテネ五輪前に合宿が3カ月くらいあって、それはきつかったですね」
――五輪本番は、かなり重圧があったんじゃないですか。
「いや、全然ですよ。3人組(ほかに長塚智広、伏見俊昭)で走るチームスプリントで出たんですが、注目度はかなり低かったんです。五輪直前の世界選では8位くらいでした。タイムも世界からは1秒くらい遅くて、メダルは無理だなという感じでした。それが、合宿の最後に高地トレーニングを(米国)コロラドで1カ月くらいやったからなのか、五輪の予選一発目でタイムが1秒くらい良かったんです。そのときに、『いけるんじゃね?』と思い始めました」
――本番に強いタイプですね。
「自分ももちろん気合は入っていたんですけど、アテネでは腰が痛くて早く終わってほしかったんですよ。ところが勝ち進んじゃって、走っている本人たちが一番驚きでした。急きょテレビ中継されることになったと聞きました」
――帰国の空港では大変なことになっていたんじゃないですか。
「そうですね。テレビでよく見る、すごい人だかりの半分くらいでしたけどね。街角でも、たまに『井上さん、握手してください』みたいなこともありました」
――さらに競輪でもタイトルを取りました。腰の具合はどうなったんですか。
「腰痛は持病というか、職業病ですね。でも腰が悪くならないような工夫をして、練習をしっかりやれるようになりました。それで2006年に花月園のオールスターで優勝できたんです」
――その後も競輪祭とグランプリを勝ちました。
「グランプリはラッキーっすよ、ラッキー」
――ラッキーって、賞金1億円ですよ。何に使ったんですか。
「うーん、よく覚えていませんね。大きな買い物もしていないし。遊びには使いましたけど、1億円も使えないですよね。どうなったんだろう。後輩を連れてちょっといいところに飲みに行くことはありましたね。イキっちゃって」
――その時に知り合いになっていれば良かった…。さすがに1億円は振り込みですよね。
「そうですね。でも1000万円くらいなら賞金を持ち歩いたことはありますよ。キャリーケースに入れるんですけど、新幹線でトイレなど席を離れるのは気持ち悪かったですね」
■今年8月には心臓の手術も
――今年4月には通算500勝も達成しました。
「記者さんは『あと何勝』とか言ってくるんですけど、そのうちできるものだし、特に気にしていなかったですね」
――勝つたびにお客さんから感謝されてきたんでしょうけど、負けたらヤジもありますよね。
「昔はよくやじられました。よく聞こえるんですよ。『イノウエ!ボケ!カス!』は日常茶飯事。言われたらもちろんイラっとします。でも最近は自分より下の世代のファンもいて、『井上さん!』と呼ばれることも増えたし、『まだやれるよ』と励まされることも多いですね。『年を取ったなあ』と、ちょっとさびしい感じもします。若手選手が『やじられました』と落ち込んでいたら、『やじられるうちが花だぞ』と声をかけています」
――46歳、やはり体力的に年齢を感じますよね。
「脈を上げて維持するのがきつくなっているんで、距離を乗って高い心拍を維持する練習をしています。2時間、60キロぐらいの距離を週2回乗っています。ウエートトレーニングもしていますし、若い頃より真面目にやっていると思います」
――心臓の手術をしたとも聞きました。
「はい、8月末ですね。2年前からおかしいなと感じ出して、練習をしていて気絶することもありました。疲れが原因だろうと思っていたけど心房細動と分かって、それでカテーテル手術を受けました」
――大変だったでしょう。
「いえいえ、2日ぐらいで退院しました。すぐ自転車も乗れました。復帰まで3カ月ぐらい休んだ方がいいと言われたんですけど、2週間で復帰しました」
――えっ、駄目ですよ。心臓ですよ!
「周りの先輩も1カ月ぐらいで復帰した人がいたし、大丈夫かなと思って」
――競輪選手って、変に前向きですよね。心臓手術の後は『競輪人生の第2章』とおっしゃっていたようですね。
「そうですね。最近は点数も落ちてきているし、ここが踏ん張りどころだと思っています。第2章に明確な目標があるわけではないんですけど、どこまで第一線で頑張れるかにチャレンジしたいなと。若い頃に比べると、より体に向き合わないといけなくなっています」
■佐世保記念・九十九島賞への意気込み
――10月、『第2章』で初めての優勝はここ、佐世保競輪場でのFⅠ戦でした。
「地元戦なのでうれしかったし、1年以上優勝がなかったのでホッとしましたね。でもその後は成績が良くないので、気を引き締めないとと感じています」
――そして12月4日から7日まで、佐世保記念・九十九島賞です。過去3回優勝しています。
「そこに向けて練習しているところです。コンディション的に今は良くはないけれど、しっかり戦えるように頑張っています」
――地元の長崎勢と一緒に勝ち上がりたいですね。
「そうですね。長崎のS級の10人全員が出る予定です。自分も頑張りたいですけど、後輩にも頑張ってもらって盛り上げたいですね」
――目指すは優勝ですね。
「もちろんプロとして、優勝を狙いますよ。みんなで勝ち上がって、自分が優勝するのが一番いいですね。でも荒井(崇博)さんが強いからなあ。負けないように頑張ります。みなさん、応援よろしくお願いします!」

■インタビューを終えて(コンバット満)
いやー、すごい方とお話できました。陸上のインターハイで優勝した人が、なんでフリーターになるの?というところから始まって、五輪のメダリストになって賞金1億円のグランプリでも優勝。そうかと思えば心臓手術から2週間で競輪に復帰。こんな人生、なかなかないですよね。『第2章』が長く太く続くよう、頑張っていただきたいと心から思いました。私も最近は自分のユーチューブチャンネルで競輪の予想番組をちょこちょこやっていて、人間臭さが垣間見られる競輪を満喫しています。今度の『九十九島賞争奪戦』は、井上さんを応援しながら自分なりの推理を楽しもうと思います。
◆井上昌己(いのうえ・まさき)
1979年7月25日生まれの46歳。長崎市出身。福岡市で育ち、那珂中、筑陽学園高では陸上競技部。八種競技でインターハイ優勝。2000年に日本競輪学校(現日本競輪選手養成所)に入学し、01年8月に長崎支部86期でデビュー(佐世保、1、1、決勝1着)。04年のアテネ五輪に長塚智広、伏見俊昭とチームスプリントに出場して銀メダル。競輪では06年オールスター(花月園)でGⅠ初制覇。08年にはGⅠ競輪祭(小倉)とGP「KEIRINグランプリ」(平塚)を制した。GⅢは10回優勝しており、うち地元の佐世保記念は3V(11、14、15年)。通算成績は1853走506勝、優勝63回。通算取得賞金は9億3920万822円。師匠は平尾昌也(58期=引退)で、師匠の息子の平尾一晃(111期)は弟子。178センチ、82キロ。(成績は11月18日現在)
◆コンバット満(こんばっと・まん)
1969年8月14日生まれの56歳。静岡県島田市出身。福岡吉本の1期生として博多華丸・大吉、カンニング竹山らとともに芸能界にデビュー。福岡の人気番組だった『ドォーモ』のMCを務め、スポーツ番組、ラジオなど福岡を中心に多岐に活躍中。2022年3月に福岡吉本を退社し、現在はフリー。174センチ、A型。